2011年03月07日

【大江健三郎全小説を読む】「戦いの今日」

物語の前半は夏──

「かれ」と弟は、朝鮮戦争へ向かう米軍兵士に脱走を呼びかける
パンフレットを配るという危険な作業をしていた。

だが、かれらはそれを自ら意識的にやっていたわけではなかった。
友人経由で「冗談まじり」で始めただけなのだ。

「ふだんは勉強に熱中しているが、時どき政治的な関心に熱病の
ようにとりつかれる者ら、しかも政治活動へ入ってゆくには分別
のありすぎる、そしてそれを羞じてもいる者ら」の一員の自己満足
でしかなかったのである。

ところが、

そんなかれら兄弟のもとへ本物の脱走兵が転がり込んできた!

しかし、パンフレットをつくった政治団体は、兵隊をかく乱する
のが目的で、実際に脱走兵をかくまうことはできないという。

だが、今さら協力しないのは無責任で卑怯だとかんじる兄弟は
単独で脱走兵を引き受けることに。

こうして、19歳の脱走兵アシュレイは、仲介役となった恋人で
外国人相手の娼婦・菊栄に連れられて、兄弟の住居で「共同生活」
を始める。

ただし、兄弟の認識は、この一件に深入りせずアシュレイを下宿
させてやるだけといったものだった。

とはいえ、バレれば当然「かれ」も弟も処罰されるだろう。
日ごろは「おれたちの日常には何も異常な事件はおこらないのだ。
おれたちは切実な限界状況からまったく隔絶されている。おれたち
は完全な保育設備のなかで育つ赤ちゃん同然」だと考えていた「か
れ」も不機嫌に苛立ち不安になる。

保護された退屈で安全な日常世界に突然異物としての現実──「か
れの皮膚の内側にできた眼にみえない腫瘍のような存在」──が侵
入してきたのである。

後半──「ふいに秋が来た」。

アシュレイの部隊が移動したと知ると、菊栄を残し3人は無鉄砲
にもアシュレイの希望どおりジュディ・ガアランドの映画を見に
外出する。

ニュース映画で朝鮮戦争の情景が映し出される。

帰途、居酒屋に寄り、弟とアシュレイは賭けを始める。
勝ったり負けたりを繰り返した挙句、最後に勝ったアシュレイは
弟を下水路に突き落とす。

帰宅したあと、「かれ」はアシュレイに暴力で仕返しするが、
アシュレイは夜明けに家を出て行く。

脱走兵をかくまったことが露顕するのを恐れたかれらはアシュレイ
を探しに米軍キャンプのある町まで行く。

そして、

そこの酒場で、アシュレイがいったん軍に自首したのだが、
ふいに逃げ出したために射殺されたことを知ったのであった。





本作の特徴──

英雄的な行為ができない閉塞感のドラマという点では、
本作以前の一連の作品群と同じだが、

これまでつねに強者だった外国人が、弱者である日本人の
主人公(=「かれ」)と同等のポジションに置かれている。

「勝ちほこっている猛だけしい外国人とは別のうちのめされ
追いつめられた外国人」に「かれ」は嫌悪をかんじるにもかか
わらず、抜きがたく「生理的な情欲」をも誘発されている。

アシュレイに暴行を加えるシーンも、形をかえた性的行為と
いえるだろう。

そこでかれらは一体化している。
「おれたちは(・・・)汚ならしくむすびついて離れることが
できない」とかれはかんじているのだ。

夢のなかでは「かれとアシュレイは快楽にみぶるいしながら汗と
精液の匂う甘美なドブ川にひたっていて、暗い橋の上から沈黙
した群衆がかれらの愛を見守っているのだ」。

はじめ「かれ」は、アシュレイに情欲をおぼえるのは、
「おれが弱いアシュレイを庇護する強者という立場になれて
しまいはじめた証拠だろう」と理解する。

他方、アシュレイも同じ感覚でいる。
彼の言うところによると、「西欧の青年はつねに賭けている」が、
「ニューヨークの青年は決して賭けない」、だから自分は軍隊に
志願して「賭けたんだ」という。そして「日本人の青年も決して
賭けない」とも。

この発言に対し「かれ」は「日本の青年は昭和のはじめにそういう
議論をしたんだ、もう時代遅れだ」と一蹴する。これは超国家主義
のことか? 日本浪漫派のことか? よくわからないが、大江が
若いころからそのあたりの思想に関心をもっていた点に留意して
おきたい。ここではとにかく「かれ」は賭けない、すなわち現実に
コミットしないことを確認しておこう。

アシュレイが弟をドブ川へ突き落したのも、強者の立場にある
「かれ」ら兄弟への報復だったのだ。

と同時に、アシュレイは「かれ」に「おれの同胞」と呼びかけて
もいる。このあと「かれ」がアシュレイをたたきのめすのだが、
こうなると強者と弱者の関係ではなく、ともに弱者の「同胞」──
「賭け」をしない「同胞」──であって、だからこそ「汚ならしく
(・・・)離れることができない」のだ。実際、アシュレイは最後
に再び逃げようとして殺された。





例の3者関係=「外国人─中間者─日本人」の中間者(菊栄)も
日本人(かれ)も関心が外国人(アシュレイ)に集中する。
アシュレイが媒介役となってこの3者関係は成立しているのだ。

菊栄も「かれ」もアシュレイとの関係がすべてであって、
そのために、かろうじて3者の相関関係が継続する。

だから、アシュレイが死んだことがわかったとたんに菊栄は
酒場の外国人に「かれ」を追い出させる。

つまり、アシュレイがいなくなった瞬間に、この3者はバラバラに
なる。3者それぞれが孤立して終わる。

従来の3者関係と比較すれば、

外国人(アシュレイ)は「父」=強者ではなく、中間者(菊栄)は
外国人に対してのみ「母」である。主人公の日本人も中間者との
関係は希薄で外国人と同等に結び付けられている。

例えば、『見るまえに跳べ』では日本人(=弱者)どうしの一体化
としての閉塞が描かれ、『喝采』では外国人(=強者)への従属に
よる閉塞が描かれていた。

本作では「同胞」である外国人と日本人とが弱者どうしの一体化(同
性愛)すら実現せず、保護者のいない閉塞への回帰が描かれる。

最後にほんの少し登場するだけの「酒場の女」(たぶん日本人)
だけが主人公にやさしく接してくれた。このことは、「かれ」を
保護するのは特定のだれかではなく、漠然とした日本人共同体で
あることを示唆する。





当然ながら、このドラマはいつもの徒労の物語である。
ふりだしに戻っただけ。


「かれはふいに自分が解放感にみちた、奥ふかい虚脱へおちこんで
ゆくのを感じた。かれの腕から限りない重荷がすべりおち、かれは
まったく解放されていた。そしてかれは自分の体がすっかり泥まみ
れなのも感じているのだった」


アシュレイが殺されたことで「かれ」は処罰されることすらなく
なった。

そう、かれの「日常には何も異常な事件はおこらないのだ」。





その他、論点だけ列挙すると──

アシュレイが主人公の弟をドブ川へ突き落したシーンで、
弟がアシュレイの命令を「冗談」に解消しようとしたのは
最近の『水死』の将校たちを彷彿とさせる。

「ふいに」の使い方が印象に残る。

この時期の大江作品には「コオフィ店」という言葉がよく出てくる。
喫茶店という語がふつうに使われるようになったのは、意外と
最近なのだろうか。


★本作の初出=「中央公論」1958年9月号



ラベル:大江健三郎
posted by 満天 at 19:21| Comment(0) | 大江健三郎 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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